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| 鉄舟先生は二十代前半から数多くの書物を執筆されている。ここでは、それぞれの書物から抜粋して紹介するので、詳細については、参考文献を閲覧されたい。 |
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| 『修心要領』 (二十三歳) |
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| 『心胆錬磨之事』 (二十三歳) |
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| 『生死イズレガ重キカ』 (二十四歳) |
何でもかでも死を軽く見ること、武士道なるがように早合点する人々往々流行すれど、我はさように思わぬ。さりながら、いったいに死を恐れるのは、卑怯千万なことにて、いうに足らぬことなれど、また、死を急ぐというに至っては、合点のゆかぬ次第なり。全体俗人は、知恵過ぐるが故に、死を急ぐか、死を恐れるか、妙に困りものなり。生死に執着する人は、とても人生の大事をともにするわけにはまいらぬなり。
いかなる万変に会うも、いささかたりとも動かず、その難を堪え忍び、綽々として、その境遇に座を占め込んで、その大事を処理するというに至っては、その苦心惨憺の状は、とても死ぬくらいな手軽ではできざるはずなり。しかるを、その苦しさに死してその難を野がるるなどは、まずまず錬胆の実薄く、忠孝仁義の誠に乏しき、畢竟愚鈍の沙汰なりと心得べし。 |
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| 『武士道』 (二十五歳) |
わが国の人々は、一種微妙な道の思想をもっている。それは神道や儒教、また仏教でもなく、その三つの道が融和してできた思想であって、古来より主に武士階級において発展してきた。わたしはこの思想を武士道と呼ぶ。しかし、この思想が文書にまとめられて伝えられているものは見たことがない。つまり、人や時代の移り変わりに伴う様々な経験により各人の感覚に寄与された一種の道徳のようなものであった。
善悪の理屈を論じて知るだけが武士道ではない。善なりと知りたる上は、すぐに行動することが武士道である。しかし、行動を重んじるからといって形を主とするものに思われるところがあるが、そう早合点していはいけない。その形は元々どのような根源から出て来たものであるかを考えることが重要である。したがって、武士道は本来心を元として、形に発動するものであるので、形は時に従い、事に応じて変化変転するものである。 |
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| 「将軍慶喜の命を受けて、大総督府本営に向かう」 (三十三歳) |
| 自ら転地に誓い、死を決し、官軍の営に至り、大総督宮へのこの衷情を言上し、国家の無事を謀らんと欲す。大総督府本営に至るまで、もし余の命を絶つものあらば曲は彼にあり、余は国家百万の生霊に代わりて生命を捨つるは、もとより余が欲するところなりと、心中青天白日の如く一点の曇りなき赤心を云々。 |
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| 『剣法と禅理』 |
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| 『剣法邪正弁』 〜剣法の極意〜(四十七歳) |
それ剣法正伝、真の極意は別に法はない。敵の好むところに従って勝を得るのである。敵の好むところとは何か。お互いに剣を執って相対すれば、必ず相手を打とうと思う念が起こってくる。だから我が体をすべて敵に任せ、敵の好むところに従って、こちらがこれに対応して勝つ。これを真に正しい勝というのである。
たとえば、箱の中にある品を出すのに、まずその蓋を去り、細かにその中をみて品を知るのと同じである。これがすなわち自然の勝であって、別に作為の法はない所以である。そうとはいっても、この術は安いことは甚だ易い、難いことは甚だ難しだから、これを学ぶものは容易なこととみてはならない。
今どき、諸流の剣法を学ぶものを見ると、これとは異なり、敵に対すると、直ちに勝気が先だち、みだりに血気の力をもって進み勝たんと欲するがようである。これを邪法すなわち、まちがって剣法というのである。
このような修業は、いったん血気盛んな時は、少しく力を増したと思うかも知れないが、中年を過ぎ、あるいは病にかかった時は、体の自由はきかなく、力は衰え技は鈍って、剣法を学ばないものにも及ばず、無益の力を尽くしたことになる。これは邪法を反省しなかったからである。剣を学ぶものは、深くこの理をさとって修行鍛錬することだ。
つけ加えていう。この法は、単に剣法の極意だけでなく、人間処世の万事一つもこの規定を失してはならない。この呼吸を得てもって軍陣に臨み、これを得てもって大政に参与し、これを得てもって外交に当たり、これを得てもって教育、宗教に施し、商工耕作に従事すれば、すべては善くゆくであろう。これ余が剣法の心理は、万事大極の理、すなわち物ごとの根源を究むるという所以である。
明治十五年一月十五日
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| 「無刀流と称する説」 |
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| 「剣術の流名を無刀流と称する訳書」 |
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| 「無刀流剣術大意」 |
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| 「一刀流兵法箇条目録(仮名字目録)」 |
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| 「竹刀長短の是非を弁ず」 |
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| 「素面木刀試合の説」 |
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| 「大工鉋の秘術」 |
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